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教員コラム

Vol.16 私の中の風景 —徒然なるままにー

迷ったらやる 迷ったらやらない
迷ったらやろう
いわゆる鍛錬期
「しんどい」「さぼりたい」「逃げたい」気持ちがある
迷ったらやめよう
試合前の調整期
やめられないのは不安だから
トップアスリートも そうじゃない人も みんな不安
やってもやってもきりがない
不安は続く
そして疲れるだけである
決めたことだけする 迷ったらやらない
そんな人が勝負強かった

私のスポーツの背景には 野球があり
子どもの頃
なぜかスポーツをする人は模範的であるとの価値観が出来上がっていた
それは暴力によって叩きのめされた
プレーヤーとして コーチとして世界を目指す競技スポーツに取り組んだ
世界に関わるスポーツ選手に出会い 何が豊かなのかわからなくなった
人は絶えず変化しているのに
全盛期がその人の絶対ゼロ点になっているように感じる
スポーツは趣味であるのが豊かな人生であるように感じる
少なくとも最近は
趣味とは気がつけば熱中しているものである

『学生との会話』小林秀雄より
「大和心も大和魂も平安朝の言葉。それ以降江戸までない言葉。」
「大和魂をもつことは、学識がある事と違う。大和魂は生活の知恵。生きた知識、常識。」
「大和心は、かたくなな知識の反対の柔和な知恵。」
「大和魂を持った人とは、人間のことをよく知った、優しい正直な人。」
「『やまとだましなるひと』とは『もののあはれ』を知った人。」
「国学の影響が政治の上に現れて来るようになり、武士道と大和魂というものが結びつくのです。もともと武士道と大和心は何ら直接の縁はないのです。あれは女の作った、女の言葉ですから、大和心を持っているということは、むしろ『もののあはれ』を知っているということだ。」
「『もののあはれ』を知る心とは、宣長の考えでは、この世の中の味わいというものを解する心を言うので、少しもセンチメンタルな心ではない。『もののあはれ』を知りすごすことはセンチメンタルなことですが、『もののあはれ』を知るということは少しも感情に溺れることではないのです。これは柔軟な認識なのです。」

大和魂って
スポーツで声高に叫ばれる「大和魂」ってなんだろう

マスターズのスポーツが盛んである
競技会に出られる人 とりわけ世界大会に出られる人は
その時に 参加できる時間と そこまで行けるお金のある人
スポーツはブルジョワのものなのだろうか
ちなみに世界マスターズ 今は 誰でも出られる

スポーツは健康のためにするものだろうか
なにかのためにするものではない
なんでも測って 成果を確かめたくなるのか
「ー旦知ると次の疑問が生まれ、際限なく『知りたい』と思う(福岡正信より)」という強迫観念かもしれない
競技スポーツのパフォーマンスを高めるなら
医師に健康管理を指示されているなら
「測る」必要があろう
スポーツを楽しむなら
測らなくていいじゃないか
自分のからだと対話して
対話を楽しんで
測ってばかりいると 自分の感性が衰える
人のからだは古代から変わってないのに

荒川修作は 感性も含むまとまりとしてのからだの退化を嘆いた
縦横高さの整ったバリアフリーは 
生き物としてのヒトのからだを劣化させると
奈義町美術館 養老天命反転地 三鷹天命反転住宅は 劣化への抵抗である

スポーツは哲学が上手くしてくれる
科学は強くはしてくれる
されど上手くはしてくれない
絶えず変化するからだと対話して上手くなるのである
分析してメカニズムがわかっても
できるようにはならない
自分との対話だけが上手くしてくれる

自分のからだと対話することは 自分を知ることである
絶えず変化する自分との対話が続く
自分を認め、褒め、嘆き
他者も同様である

対話は からだを駆使して知覚される
脳もからだである
身体運動を介して 自己肯定感 社会性 言語 認知などなどを遊びながら学んでいく取り組みがある
Psychomotorikという
Uni. OsnabrückのRenate Zimmerが取り組んでいる
ドイツには 実践を基底に据えた研究がある

スポーツをするということは
絵を描くこと
楽器で音を奏でること
歌うこと
舞うこと
演じることと同じである

『モオツァルト・無常という事』小林秀雄より
「美は沈黙させる。」

待つ
ドイツのスイミング
子どもたちは足のつく小さなプールで慣れる
コーチが泳げると判断したら大きなプールへ
ドイツのプールは飛び込みができるよう水深3mの箇所がある
子どもには沼のように深い
コーチは立ち泳ぎして 子どもがプールサイドから入ってくるのを待つ
子どもは右往左往
外で見ている親は「入れ!」と
コーチは「プールに入ったら助けるから」と
子どもは泣きながら右往左往
その日の時間は終わった
コーチに尋ねた
「どうして抱いてプールに入れないのか?」
コーチは「人は1歩目を自分で歩まないと、2歩目からも自分で歩めない。私は彼が自分で入るまで来週も待つ」

『金平糖の味』白洲正子より
「特別なご馳走がほしいわけではなく、魚でも野菜でも、極く平凡な、土地でとれる、その時期のものがあれば満足なのだが、このやさしいことが、この頃では、だんだんとむつかしくなって来た。たとえば、そら豆一つとってみても、殆ど年中食べられる。温室で栽培した、冬のそら豆がおいしい筈はない。が、因果なことに大好物なので、出されるとしぜん手が出てしまう。そして、ほんとうにおいしいそら豆が出る頃には、新鮮味を失って、ほんとうのおいしさが味わえない。で、最近はそら豆ばかりでなく、しゅん以外のものは食べないことにしているが、意地汚くなる為には、それ位の我慢も必要なのである。田舎に住んでいると、変な風に贅沢になって来る。豆類とか青い野菜、それにお米の味みたいなものに敏感になり、いつとったものか、いつ精米したものか、何となくわかるようになる。」

トレーニングとは器を満たしていくこと
確か 西藤宏司が言っていた
器が満たされれば 表面張力が頼り
表面張力を超えるとこぼれる
トレーニングでこぼれるとは ケガや疲労
新しい器を創ろう
ガラスのコップなら 別のガラスと混ぜて 作り直すこと
別のガラスとは 新しい感性やトレーニング
作り直すとは 一旦壊すこと
継ぐのはやめよう 継いだところが弱い
壊したら 元のパフォーマンスは出ないかもしれない
壊さなければ 元のパフォーマンスのまま
勇気を楽しもう
自分も周りも変化しているのに 同じはありえない

豊かに生きたいものである
Hermann Salomonは 豊かな人生には4つのLが必要だと言った
Leistung:競争や成績
Lust:欲求
Last:適度な負荷やプレッシャー
Lachen:笑顔
「遊び」は全てを提供してくれる
私は陸上競技の槍投げをしてきた
陸上競技はドイツ語でLeichtathletikである
もう一つのL

スポーツ=運動ではない
測る必要のない豊かな営みである
スポーツは教育でもない
教育は学習と捉えるなら 人生と読める
スポーツは人生の彩りである 無目的な営みである

『日本を問い直すー人類学者の視座』川田順造より
「『創世記』に語られているところからすれば、言葉が通じ合っていたから、人間は何でもできると思いあがっていた。言葉を通じ合わなくすることによって、神は人間を戒めたということになる。人間の言語と ーということは、広く『文化』についてもいえることだー が多様であることの意義については、現代世界の重要課題である、別の表現で言えば、言語もその一部である文化の単一化、グローバル化の趨勢の中での、文化の多様性の尊重という問題と、切り結ぶものだ。」
「ヒトの『分かり合えなさ』『心の通わなさ』は、人の話す言葉がバラバラになってしまったからでは決してない・・・・。」
「だが同時に、言葉は、それまで『意味共同体』とでもいうべき共通基盤をもたなかった他者との間にも、新しく『意味共同体』の関係を作り出してゆく積極的な役割を果たすと私は考えている。」
「コトバがばらばらになったから、人間は互いに分かり合えなくなったのではなく、『国家』への強制された帰属が、いま人間の心を通いにくくしている。」

『なにもかも小林秀雄に教わった』木田元より
「思索のうちで存在が言葉になる。言葉は存在の家である。言葉という住まいのうちに人間は住んでいるのだ。(M. Heidegger: Brief über den >>Humanisumus<<, S. 145) 」

『モオツァルト・無常という事』小林秀雄より
「文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろなことを気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる。」

無意識の意識化
潜在的存在を顕在化
言語化はその1つ

『ネアンデルタール人は私たちと交配した』スヴァンテ・ペーボより
「人はアフリカの1人の女性から始まった」
「私たちにはネアンデルタール人の遺伝子が引き継がれている」

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<オリバー・サックス>
「生物学的あるいは生理学的に見て、われわれはほとんど違いはないのだけれども、各個人の物語は異なっていると。」

『日本を問い直すー人類学者の視座』川田順造より
「人種が存在しなくとも『人種問題』はあり、民族が実体としてはなくても、差別の烙印や逆に自己主張の旗印としての『民族』と『民族問題』は存在するのだ。」

道(みち?どう?)
『歴史を考えるヒント』網野善彦より
「そもそも『百姓』の『百』には、『非常に多くの』『あらゆる』という意味があります。また、『姓』には姓氏、われわれの名字とは多少違いますが、血縁集団の名前ということになります。そして、姓には職能が結びついていることもあるのです。従って、字義通りにとらえれば『百姓』は『あらゆる姓を持つ人々』あるいは『あらゆる職業の人々』が本来の意味であり、一般の普通の人々を指す言葉なのです。そこには先ほども述べたように、『農民』の意味はまったく含まれていません。」
「こうした職能集団を指す『道々者』という言葉がおおよそ十世紀から十一世紀頃に見え始め、同じ頃から『芸能』という言葉も使われ始めます。この『芸能』の意味は現在よりもはるかに広く、手工業者の技術まで含んでおり、例えば、『諸道の細工人』はそれぞれの『芸能』に即して交易・売買をする、というような用い方がされています。そして、この『諸道』や『道々者』の『道』は、様々な芸能に即した技術のあり方という意味でした。 つまり、鋳物師の場合には鋳物の『道』がありましたし、螺鈿を作る職能民には『螺鈿道』、木工の職能民には『木工道』というように、すべての芸能に『道』がありました。武士の『芸能』は武芸ですから、『兵の道』という言葉も古くから使われていますし、更には賭奕の道、遊女の『好色の道』という用例も実際に見られるのです。」
「実際、牛や馬などの動物は、時代が降りると『畜生』として賤しめられるようになりますが、十四世紀ごろまでは、人間の世界を超えた存在であり、これを虐待すれば神罰・仏罰が下るとも考えられていたと思われます。おのずと、そうした動物の死体を扱う人々も、むしろ聖なる領域に属する人々だったのです。」
「十五世紀には、このように茶や華を扱ったり、庭園をつくる人々、さらには猿楽の芸能に携わる人々も、差別され賤視される一面を持つようになっていますが、そうした人々によって茶道、華道さらに能のような芸能が生み出され、すばらしい庭園がつくり出されたことをわれわれはよく知っておかなくてはなりません。」

『子どもたちに語るヨーロッパ史』ジャック・ル・ゴフ 著 、 前田 耕作 監訳 、 川崎 万里 翻訳より
「アラビア数字はインドからきたのです。ヨーロッパの言語では多くの単語がアジア、特にペルシア、トルコやアラブ起源です(代数、長椅子、税関など)。」

朝日新聞2015年10月27日(火)天声人語より
「わたしたちは、みんなおたがい助け合いたいと望んでいます。……わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです(中野好夫訳)。」

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<マービン・ミンスキー>
「普通の知能の人々がたくさん集まって協力すれば、一個人の知能よりもより高い知能を示す行動をする、というようなことが期待を込めてよく言われるけれども、問題は、もちろんそういう場合もあるでしょうが、そうでない場合もあるということです。集合知能ということを言う人たちは、どんな場合にそれが発現されるのかについて説明しないんですね。集団知能は個人の知能を常に上回る、というようなあらっぽい言い方をしたがる。しかし、アメリカ人がこぞってブッシュを大統領に選んだときは、もちろん集団が大間違いをしたわけです。実際歴史を振り返ってみれば、多くの人々が大賛成した場合のほとんどは、大惨事になるか、文化が崩壊するか、大衆をうまく説得するヒットラーのような人物が現れる、といった悲劇に結びついています。ドイツ国家は、突然にして偉大なる科学立国から犯罪国家に転化し、全ての人々が一致団結するようになって、反対する者は一人もいなくなってしまった。ですから私自身は、集団の中に一般的な英知があるというふうには信じていません。」
「集団の知能もあるかもしれないけれども、新しいアイディアを抑圧しようとする集団の危険も多いにあるわけです。」

『学生との会話』小林秀雄より
「山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかっらからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭のどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう低俗な花が桜だと教えられて了うわけだ。」

朝日新聞2015年11月5日(水)人生の贈りもの わたしの半生
音楽評論家・作詞家 湯川れい子より
「今も思います。結局、国って何も責任をとってはくれないんです。」

歴史的に詠われ 語られてきた桜は 山桜
権力をあてにしてみよう
あてならないのがわかるから
権力は人である

人は弱い
弱いままでもいいじゃないか

『思い出袋』鶴見俊輔より
「知は行動の一様式である。これは手や足を動かして行動するのと、まさしく同じ意味で行動であるということを徹底してかんがえるべきである。」
「人は現場の活動を見なければ、その知恵の深さはわからない。」

西岡常一のことば
「木にはそれぞれ癖があり、一本一本違います。産地によって、また同じ山でも斜面によって変わります。まっすぐ伸びる木もあれば、ねじれる木もある。材質も、堅い、粘りがあると様々です。木も人間と同じ生き物です。いまの時代、何でも規格を決めて、それに合わせようとする。合わないものは切り捨ててしまう。人間の扱いも同じだと思います。法隆寺が千年の歴史を保っているのも、みな癖木を上手に使って建築しているのです。」
「自分からしてみせな。それがいちばんですな。なんぼ上手に文句言うてもあきませんわ。やっぱりまず私自身鉢巻きをしめて、汗を流して、その人の前でこういうふうにやってくれと、実際してみせんとな。」
「職人の中から芸術が生まれて、芸術家といわれる人の中からは、芸術は生まれてきません。」

お寺の建立や修理に使う材木は山ごと買うと
南側に使う木は南斜面に生えてる木を使う
朝日のさす東側も
寒風吹きすさぶ北側も
西日の強い西側も同様
ひとまとまりとして捉えるとはそういうこと
“Gestalt“である

『思い出袋』鶴見俊輔より
「子どもには、小学校に入るまでに六年間の生活がある。その生活から育まれた観察と直感とが、そのままひとつの教科書になっている。そのはじまりの教科書をどう受けつぐかが、敗戦直後においても、おなじように教師の仕事である。」
「小学校から中学校へと、自分の先生が唯一の正しい答えをもつと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として耐えざる転向の常習犯となり、自分がそうであることを不思議と思わない。」

演奏家になろうとドイツで修行している人と話したことがある
人は 若いとき 尖っている
僕は 星の形を思いついた
日本は 尖りを削って丸くしてゆく
ドイツは 尖りの溝を埋めて丸くしてゆく
どちらが大きいか
これが人を育てる理念

『金平糖の味』白洲正子より
「芸術品をこさえようとするから失敗する。いい物をつくれば、おのずからそこに芸術は在るだろう。」
「人間は杓子定規で律しきれないものであることを、矛盾にみちたものであることを、知るのが文化というものだろう。」

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<ノーム・チョムスキー>
「情報にアクセスするということ自体は、あまり役に立ちません。生物学者が、ハーバード大学の図書館にある全ての生物学の論文を読んだとしても、ほとんど何の役にも立たないでしょう。実際優れた生物学者だったら、そんなばかげたことはしようともしないはずだ。生物学でノーベル賞をとるような人は、論文を片端から読むような人ではなく、何を探すべきか、何が大事か、ということがわかっている人です。だからこちらで大事なことを拾い、またあちらで大事なことを拾うというふうに働く。」
「偽善者とは自分に課す基準と他人に課す基準が違う人のことだ。」
「MITのような世界的の優れたエンジニアリングとサイエンスの大学では、授業に出てノートをとり、それを試験で再確認するようなことは一切期待されていない。むしろ、たとえば教授の言っていることに見事に挑戦できること、あるいは、他の人たちと協力して独自の創造的な仕事をすることが期待されている。」
「子供たちの自然な好奇心をはぐくみ、内面から出てくる興味に根ざした教育をすべきだという教育哲学は、18世紀の啓蒙思想までさかのぼることができます。学校を、バケツに水を注ぐような教育組織と考えず、むしろ道筋を作ってやり、それに沿って生徒たちが自分のやり方で探検して行くようなものだと考えた方が良いというわけです。生徒たちがドキドキして自ら知りたいと思うように励ますような教育システムであるべきだと。」

<オリバー・サックス>
「実際は何もないところからは何も出てこないのです。」
「経験が遺伝子の発現を促す、すなわち環境によって遺伝子の発現そのものが左右されることがわかってきました。ですから遺伝子を持っていても、環境の助けがなければ宝の持ち腐れになってしまう。」

教育は「教え」「育む」ことじゃない
「引き出す手助け」のこと
経験が潜在的に蓄積されている
行為は経験を任意に組み合わせること
教育はその手助けである
経験は絶えずアップデートされている

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<オリバー・サックス>
「重要なことは先生と生徒の間のポジティブな関係だと思います。そして、もちろん情報を教えることも重要ですが、最も生徒を生き生きと興奮させるのは、先生の情熱です。たとえば私の生物の先生から何よりもよくわれわれ生徒に伝わってきたのは、その先生がいかに自然や動物が好きか、どんなにそのことを話すのが楽しくて仕方がないかという、彼の情熱でした。これは大きな問題です。教育は消極的であってはならない。もっと積極的に好奇心や想像力、心の自立ということを刺激するべきだと思います。これらは全ての人に備わっている資質で、特に高い知能を必要とするものではありません。学校では、単に解答が正しいとか間違っているかといったようなことばかりを扱うのではなく、プロジェクトを与えたり、提案をするといった形での教育がなされるべきではないか。」

枝雀さん
笑ってもらえなかった時期があったと
「笑わそう」とすると
お客さんは引く
気付いた
「自分が面白くなければ お客さんは面白いはずはない」
自分が思いっきり楽しんだ
お客さんから笑いが生まれた

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<マービン・ミンスキー>
「人生は自分探しじゃない、自分作りだ:ジョージ・バーナード・ショー」
「ほとんどのコミュニケーションには、新しい情報はほんのわずかしか入っていない。たいていの人は、情報を伝えるためにではなく、自分が安全な人間であることを示すために会話をしている。」
「人間にとって難しいことは、コンピュータにとって朝飯前で、人間にとって易しいことは、研究対象としては無視されたわけで、全く変な話しです。」

<ジェームズ・ワトソン>
「自分を満足させるには、他人のアイディアではなく、自分のアイディアを実行しなければならない。」

「モオツァルト・無常という事」小林秀雄より
「抵抗物のないところに創造という行為はない。」
「努力は五里霧中のものでなければならぬ。努力は計算ではないのだから。これは、困難や障碍の発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けてきた、いわゆる世の経験家や苦労人は、一見意外に思われるほど発育不全な自己を持っているものである。」
「もし誤解される恐れがないならば。だが、誤解は、恐らく避け難かろう。」

「緊張と緩和」
枝雀さんのことば
緊張と緩和は2つじゃなくて1つ
表裏じゃなくて一体
表があるから裏という概念
裏があるから表という概念
どっちも一緒
「緊張と緩和」が人生

からだとこころ
からだと脳
分けられないのに分けたがる
脳はからだなのに
五感と第六感
すべてはからだからインプットされ アウトプットされる
だから分けられない

人類の歴史は分けること
ギリシャ時代は 哲学
自然科学も人文科学もなかった
人を分けていなかった
一旦 分け始めると止まらない
ー旦知ると次の疑問が生まれ 人は際限なく「知りたい」
これが人が食べた禁断の実かも知れない

『歴史を考えるヒント』網野善彦より
「『日本』は地名であるとお考えの方もあるいはいるかもしれませんが、これは本来地名ではありません。『日本』は特定の国の名前として、ある時点で歴史上に初めて出現した言葉です。読み方も十六世紀の頃に『にほん』と『にっぽん』の両方であることがわかっており、どちらが多く用いられたのかは議論の分かれるところですが、ここでは『にほん』としておきます。『にほんばし』と『にっぽんばし』があるのですから、どちらを使ってもよいと思います。しかし、国の名前であるならば、誰かがいつか何らかの意味を込めて定めたことになります。それでは、この国の名前が決まったのは、果たしていつだったのでしょうか。」
「正解の七世紀を含めて、いずれも多数派と言えるほどの数ではなく、要するにこの問題に対して、日本人の認識は極めてあやふやであると言えます。国家公務員の研修に呼ばれて同じ質問をした時も、結果は似たようなもので、五十人のほとんどが知りませんでした。私が『外国に行って、このことを聞かれたらどうするのですか』と言ったら、みなさん苦笑されていましたが、その席にいたアメリカ国務省の役人に『ご自分の国の名前が決まった年は』と聞いたところ、彼は1776年すなわち独立宣言の年を挙げていたと思います。これが本当にアメリカの国名が決まった年かどうかは別にしまして、私はこれは非常に大きな問題だと思っています。」
「『建国記念の日』が二月十一日に決まった時、当時の歴史家たちはこぞって反対しました。神話の世界の話をあたかも事実であるかのごとく扱って、いわゆる『紀元節』を戦後に復活させたわけですから、それは当然だと思います。私自身も全く反対です。ただ、今から考えると、その時の閣僚や国会議員たちに、『日本という国の名前が決まった日を知っているのか』と質問を浴びせればよかったと思います。恐らく、誰一人知らなかったのではないでしょうか。」
「倭から日本に国名を変えたときよりも前には、日本国という国は地球上に存在しなかったと言うことです。存在していたのは倭国であり、それは倭人という集団を中心とした国でした。」
「『聖徳太子』は日本人ではなかったのです。自分で倭人と言っていたのですし、倭人イコール日本人では決してないのですから。実際、関東人はおそらく倭人ではないでしょうし、東北人や南九州人は倭人ではないのです。」
「日本という国名が成立した経緯を考える必要があるわけですが、まず認識としておくべきことなのは、これは決して国民の総意で決まったのではないということです。当時のヤマトの支配層が、中国大陸の隋・唐の律令を受け入れて本格的な国家を作り上げることに全力を注ぎ、その上で唐、中国大陸の帝国を強く意識して定めた国名であることは間違いありません。従って、一部の人が決めた国名である以上、人の意志で変えられる、つまり我々日本人の意志で変えることもできるのです。」
「『日本』という国号を定めた頃の国家の支配体制と、そこから生まれた地域呼称の問題について言及してみたいと思います。その前にもう一つ、『天皇』という王の称号もそれと同じ時に公式に決まったことも、忘れてはならない問題です。それ以前にも、『天皇』という称号は資料の中に散見することができますので、それについて、いろいろな議論はありますが、王の称号として公的に確定したのは、国号の確定と同じ浄御原令と考えられています。そして、それは前回に述べた、当時の支配層が中国大陸の唐帝国に対して強く抱いた自立意識から生まれたものだと言えると思います。」

「日本は古来から・・・・」?
私たちは 八百万の神だった
今より調和して生きていた
調和は人に合わせることではない
"Gestalt"

“Gestaltkreis”は 一つのまとまりが絶えず円環していることと理解している
私のからだは絶えず変化している
幼少期は成長といい 今では老化という
私以外も 同様に絶えず変化している
他者を含む環境の全てが
変化が絶えず互いに影響しあっている
こうして世界は動いている

ギリシャは 八百万の神だった
陸上競技場に1年に2週間ほどだけ生まれる虫がいる
ただ地面を飛び 亡くなる
土になり 鳥の糧となる
人を頂点に生きているのではなく 地球の生物は互いに生きている
そして環境に適応して変異したり 滅びたり

『歴史を考えるヒント』網野善彦より
「中世文書にしばしば見られる「支配」という語が今日とは異なり、配分、配布、割あてなどの意味であった。」
「『時宜』はふつう『ちょうどいい時』『ほどよい頃合い』という意味に解釈される言葉ですが、古代末から中世の記録を丹念に読まれた結果、実はこれは時の権力者の意思、判断を示している言葉と考えないと理解できない事例が非常に多い。」

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<ノーム・チョムスキー>
「本当に重大な仕事は、たいてい他の人との協力の下に行われるからです。」

偶然は必然
不思議なご縁である

再現性
できなかったことができるようになる できたのにできなくなる
変化しつづけているから
「前にできたんだからできるはず」「いつものようにやればいい」はない
同じ結果(演技、プレー、技)なら 処理する過程が違うはず
それに気付いてる?気付いてない?
そう考えるとプレーの幅が広がるか こんがらがるか

いつからウォーミングアップが必要なんだろう
子どもはいきなり遊んでる
ルーティンは大切かもしれない
安心させてくれるかもしれない
計画は大切である
予定は未定である
予定通りに進まなかった時 能力が問われる
新しい発見につながる楽しみである

アクシデントを楽しみたい

橋本 武(元灘中・高国語教諭)の言葉
「遊ぶように学ぶ」
「横道にそれて教養を深める」

人生に無駄はない
何があっても無駄にするか しないか である

上方落語
綺麗な大阪弁なら米朝師匠 エンターテイメントなら枝雀さん
いずれも生では聞けない
お二人とも「地獄八景亡者の戯れ」を地でいってられるのか

古典落語
同じネタをくっても 人が変われば面白かったり 面白くなかったり
同じように演じても 師匠は面白く 弟子は面白くなかったり
「わざ」の深み
能も狂言も興味深い
「わざ」は興味深い

『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン
吉成真由美[インタビュー・編]より
<ノーム・チョムスキー>
「科学は素晴らしいものですが、人間の問題について何も言うべきものを持っていません。」

『科学論の展開』A.F.チャルマーズ 著/高田紀代志・佐野正博 訳より
「科学理論は決定的に立証することも決定的に反証することもできない。哲学者の行う再構成は、科学で実際に生じていることと少しも似ていない。こうした状態が明らかになったことで生じた反応の一つは、科学が特定の方法に従って行われる合理的活動である、という考えを全くあきらめる道である。」
「科学は古代の神話やブードゥー教といった他の知識よりも本質的に優れたものとするような特質をもっていない。科学への崇拝は現代の宗教として、中世ヨーロッパ社会におけるキリスト教と同じ役割を演じていると見られている。科学理論の間の選択はつまるところ個人の主観的価値と欲求によって決まる選択であるという。」
「ある対象や光景を見ているときに、観察者の見るものや主観的経験は、網膜上の像によってのみ決まるのではなく、観察者の経験や知識や期待などにも依存する、ということを示す例を科学から出してみよう。この点は、科学においては有能な観察者になるためには学ばなくてはならない、という議論の余地のない認識の中に暗示されている。・・・・・・」

『モオツァルト・無常という事』小林秀雄より
「謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。自然は、彼の膚に触れるほど近く、傍らに在るが、何事も語りはしない。黙契は既に成立っている。」

科学やデータが頼りになるときもある
直感が頼りになるときもある

『歴史読本2013.7』より
「同志社を支えたすべての上州人は『右の手のなすを左の手にしらしめず』という教えのとおり、自らの善行を他人に知らせることを好まなかった。」

『金平糖の味』白洲正子より
「至って平凡なおかずだが、凝りに凝った料理より、お総菜をうまく食べさせる方が、私にはずっとむつかしいように思われる。」

『モオツァルト・無常という事』小林秀雄より
「ものは不完全なのがいい(吉田兼好、千利休)」

小熊英二も読んでみるといい
Michael Ende(ミヒャエル・エンデ)も
Günter Grass(ギュンター・グラス)も
白州二郎も
本多勝一も
西田幾多郎も
マックス・ウェーバー『職業としての政治』も、・・・・
岡潔も

落語もいい

豊かに生きたいものである

長々と失礼しました

皆さんには どんな風景が広がっていますか

引用に間違いなどがあればご容赦願いたい

田附俊一教授

田附 俊一 教授

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