このページの本文へ移動
ページの先頭です
以下、ナビゲーションになります
以下、本文になります

教員コラム(井澤 鉄也)

スポーツ生化学小史

 教員コラム初登場となります。色々と考えを巡らせてはいたものの,はてさて,どうしたものか。徒然なるままに,スポーツ生化学の歴史と可能性について触れることにします。

1 スポーツの科学,体育の黎明と揺籃期

izawa.JPG  (100449) 井澤 鉄也 教授

 ホモ・サピエンスの持久走能力はおよそ200万年前に芽生え,その後,ヒトの体型を進化させるために大いに役立つ手段となった[] 。では,走る,跳ぶ,投げるなどの運動やスポーツがサイエンスの対象となった時はいつの時代なのでしょう。身体や運動競技への言説はプラトンやキケロ,ホメロスらの時代にまで遡り,古代オリンピックでは体力と栄養,疲労回復などの研究があったとされています(小野と依田)。すでにこの時代から,今で言うスポーツ医学の研究が行われていたようです。一方,近代科学としてのスポーツ医学は,イギリスの F. Fuller による「医学的運動論(1705年)」やドイツの F. Hoffmann の「医学的に見た適量の運動(1701年)」に萌芽をみることができます(黒田)。また,「体操」や「体育」は18世紀末から19世紀初頭にかけて黎明し,F. Nachtegall によるデンマーク体操(1780年)や F. L. Jahn のドイツ体操(1811年)が展開されます。ドイツ体操の理論には, J. C. F. GutsMuths の「人間は精神的文化と結合した身体の完全を目指すべきである」という思想が流れているとされてます。GutsMuths は近代体育および学校体育の父とよばれ,ドイツではいちはやく教科としての「体育」が学校に導入されました(我が国で初めて大学体育に接したのは新島襄です。新島が入学した米国アーモスト大学は1860年に体育学科を開設しています)。また,19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した E. G. A. Husserl によってキネステーゼ(Kinästhese)という概念も提唱されました。キネステーゼとは「運動感覚」のことで,佐藤(2009)によれば「生理学的・心理学的意味とは異なる運動感覚」とされています。きわめて端的に言えば動きの「コツ」や「感じ」となり,現在でも体育やスポーツの指導でしばしば利用されています。しかし,自然科学の言葉に対比すると哲学的表現であることは否めません。一方,GutsMuthsは「身体運動を教育学と生理・解剖学の理論によって,一つの新しい学問体系にすることが時代の課題である」ことも先見的に提唱しています。

参考文献
[]Bramble DM, Lieberman DE. Endurance running and the evolution of Homo. Nature 432: 345-352, 2004.

2 近代スポーツ科学の勃興

 Fuller や Hoffmannの著書が出版され,体育・体操が盛んになるとともに「身体運動」に関する科学も発展していきます。とりわけスポーツ医学は近代オリンピックとともに歩み始め,スポーツ選手の医学的管理の必要性から医学的・生理学的なトレーニングの研究が盛んになってきます。そして1928年,第2回冬季オリンピックを機に国際スポーツ医学協会が設立されました。また,そもそもSportwissenschaft(スポーツ科学)が発達していたドイツでは,同じく1928年に身体運動の科学を研究対象に含む学術雑誌,Arbeitsphysiologie(労働生理学,現在のEuropean Journal of Applied Physiology)が創刊されます。この頃,我が国は国立体育研究所を1928年に設立し,第二次世界大戦後の1949年には第1回の日本体力医学会が開催されました。学会誌,体力医学の創刊も1949年のことです。因みに,現代のスポーツ科学をリードする米国では,アメリカ生理学会によるJournal of Applied Physiologyの創刊が1948年,アメリカスポーツ医学会のMedicine and Science in Sport and Exerciseは1969年に創刊されています。こうして近代のスポーツ科学 Sports Science が発展し,今や体育学,医学,心理学,生化学,栄養学,社会科学そして統計学などを総合した学問に深化しようとしています。全ての領域について言及することは,私の能力をはるかに超えてしまいます。そこで,私の専門であるスポーツ生化学について,少し振り返ってみます。

3 スポーツ生化学の発展

 スポーツ生化学も広義にはスポーツ医学に含まれます(小野と依田,黒田)。また,運動生化学・スポーツ生化学はとかく新しい領域に思われがちですが,その歴史は古く,第1回の国際運動生化学会議(http://www.biochemistryofexercise.org)は1968年にベルギー,ブリュッセルで開かれています。来年は中国で開催され,ちょうど半世紀を迎えます。また,アメリカ生理学会によるThe Integrative Biology of Exercise は4年ごとに開催され,第7回大会は2016年にアメリカスポーツ医学会と合同で開催されました。近年,とりわけ注目すべきことは, Cell Symposiaにおいて,Exercise Metabolism のシンポジウムが2015年と2017年に相次いで開催されたことです。Cell symposiaは学術雑誌Cell を発刊する Cell Pressが主催するもので,Cellはライフサイエンス(生化学,分子生物学,実験生物学など)における世界最高峰の学術雑誌です。つまり,実験生物学のミクロな視点から運動やスポーツのnatureを解明する作業は世界のホットトピックスの一つになっている,と言えましょう。しかし,その萌芽はすでに半世紀も前にあったことは上述した通りです。Exercise biologyという言葉も全く古いものではありません。その昔購入した手持ちの本の中にも,1989年に発刊された「Biological Effects of Physical Activity, Williams RS & Wallace AG eds., Human Kinetics」があります。生化学や生物学(生命科学)の視点から運動の本質を捉えようとする研究は,スポーツ科学の老舗の一つと言えるでしょう。  では,運動・スポーツの生化学的研究が学術雑誌に見られるようになったのはいつ頃のことでしょう。第1回の国際運動生化学会議が1968年ですので,それ以前ということになりますが,全ての論文を検索するにはあまりにも時間がかかりすぎます。そこで極めて安易(手抜き,無責任)ではありますが,PubMedにおいてexercise biochemistryで検索をかけてみました。4656本がヒットします。最も古いものが1931年のBiochemical Journal(英国生化学会誌)に掲載された論文でした[]。日本の英文学術雑誌では日本栄養食糧学会のJournal of Vitaminologyで1959年のことです[]。もちろん,検索キーワードを変えれば他にも相当数の学術論文がヒットすることは自明です。
 私自身のスタートアップ時の経験を振り返ると, J. O. Holloszy先生が若かりし頃に発表した論文「骨格筋ミトコンドリアに及ぼす運動の影響 []に感化され,V. R. Edgerton先生[]やP. D. Gollnick先生[]の初期の論文に大いに刺激を受けました。残念ながらGollnick先生はその才を惜しまれながら鬼籍に入られてしまいましたが,Holloszy先生とEdgerton先生はいまだ現役で活躍されています。こうした先生方がお若い頃に活躍された1960年から1970年代は,「運動による筋繊維タイプの適応」,「筋肉の糖取り込みと代謝の相互関係」がトピックスとして取り扱われ,多くの研究成果が積み重なっていきました。とりわけ後者の研究成果はグリコーゲンローディング法につながり,スポーツ生化学がスポーツサイエンスに貢献した最も意義ある研究の一つとされています[]。
 しかし,グリコーゲンローディングを生み出した研究のヒントは「糖質が豊富な食事を運動前に数日間摂取すると,脂肪が豊富な食事を摂取した場合と比較して運動のパフォーマンスが2から3倍に増加する(ChristensenとHansen)」という1930年代の研究にあります。この最初の発見からおよそ30年が経過した後,BergstromとHultmanによる「運動前のグリコーゲン濃度と運動パフォーマンスには明らかな相関がある」という研究につながります。そして数多くの知見が集約された結果,グリコーゲンローディング法に実用化されました。このように,基礎研究が応用や実用につながるには相当の時間を必要とするということです。

参考文献
[]Fisher RB. Carbohydrate metabolism in birds: The effects of rest and exercise upon the lactic acid content of the organs of normal and rice-fed pigeons. Biochem. J. 25: 1410-1418, 1931.
[]Nishizawa Y, Kodama T, Yamanaka T. Inhibition of brain glutamic decarboxylase by running fit-inducing substances. J. Vitaminol. (Kyoto). 5: 111-116, 1959.
[]Holloszy JO. Biochemical adaptations in muscle. Effects of exercise on mitochondrial oxygen uptake and respiratory enzyme activity in skeletal muscle. J. Biol. Chem. 242: 2278-2282, 1967.
[]Edgerton VR, Gerchman L, Carrow R. Histochemical changes in rat skeletal muscle after exercise. Exp. Neurol. 24: 110-123, 1969.
[]Gollnick PD, Soule RG, Taylor AW, Williams C, Ianuzzo CD. Exercise-induced glycogenolysis and lipolysis in the rat: hormonal influence. Am. J. Physiol. 219: 729-733, 1970.
[]谷口正子ら監訳,スポーツとトレーニングの生化学,メディカル・サイエンス・インターナショナル,東京,1999;Maughanら,Biochemistry of Exercise and Training, Oxford University Press, 1997.

4 スポーツを分子で見る機運の高まり

 その後,スポーツ生化学の基礎的研究は,運動・骨格筋の筋線維(筋繊維)タイプとスポーツパフォーマンスとの関係,ホルモンの役割,代謝調節機構,細胞内情報伝達機構などの解明に大きく貢献します。 そして,分子生物学が生化学・生物物理学・遺伝学を基盤として発展したように,スポーツ生化学も分子生物学的視点からの研究が枝分かれしていきます。分子生物学が生命科学としてのエビデンスを追求するために欠かせない研究手法だからです。 そのトリガーは,1993年に米国科学アカデミー紀要に発表された論文でしょう[8]。この論文はフィンランドのクロスカントリースキーの名選手,Mäntyranta氏の強さの秘密を明らかにしたものです。 Mäntyranta氏は赤血球産生に関わるホルモンであるエリスロポエチンの受容体にmutation(突然変異)があるため,赤血球産生能が生得的に高く,その結果酸素運搬能力がきわめて優れていたのです。この論文はスポーツパフォーマンスに関する分子生物学的研究の先駆けとされています。そして,アンギオテンシン変換酵素遺伝子と登山能力との関係を示した論文が1998年に発表され,遺伝子多型とスポーツパフォーマンスに関する研究が盛んになりました。私事で恐縮かつ僭越ですが,このあたりのストーリーは1999年の第50回体育学会(東京大学)の運動生化学に関する講演で紹介させていただきました。やがて,2007年には分子生物学的技術によって,持久運動能力も高く寿命も長いスーパーマウスが生みだされることになり[],Cell Symposia につながっていきます。
 これからは,分子生物学的アプローチで得られた知見の統合,すなわち運動後に起こる代謝応答に関わる情報伝達系と骨格筋の遺伝子発現変化の関連性(クロストーク)の解明がexercise biology (biologists) の大きな挑戦であり,今後10年以内にはトランスフォーマティブな研究成果(transformative research)が産まれると予想されています(Hawley JA et al., Integrative Biology of Exercise. Cell, 159, 738-749, 2014)。トランスフォーマティブ研究(transformative research)とは,革新的研究,世界を変えるような研究,科学上の既成概念や既存の研究分野に変革をもたらす可能性のある研究のことです。
 しかし一方で,運動やスポーツの生命科学的エビデンスが明らかとなるにつれ,様々な問題も提起されることになります。そのひとつが遺伝子ドーピングです(Is science killing sport? Filipp F, EMBO reports, 8, 433-435, 2007)。この問題については,またの機会があれば触れたいと思います。

参考文献
[8]de la Chapelle A, Träskelin AL, Juvonen E. Truncated erythropoietin receptor causes dominantly inherited benign human erythrocytosis. Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. 90: 4495-4499, 1993.
[]Hakimi P, Yang J, Casadesus G, et al. Overexpression of the cytosolic form of phosphoenolpyruvate carboxykinase (GTP) in skeletal muscle repatterns energy metabolism in the mouse. J. Biol. Chem. 282: 32844-32855, 2007.

おわりに

 スポーツ科学にはさまざまな研究領域があり,いずれの領域も目覚しい進歩をみせています。しかし,トップアスリートの秘密や競技力向上のためのトレ−ニング方法,健康とスポーツの関わり,そして「運動感覚」などを論理的・客観的かつ体系的に語るには,まだまだ相当の時間がかかりそうです。その理由の一つとして,私見ですが,スポーツ科学は「複雑系」の一種でもあるからだと思います。科学の使命のひとつに,複雑で多様な世界を識別するために一般化・単純化することがあります。本コラムを最後まで読んでくれた若い皆さん,スポーツ生化学やスポーツ分子生物学の世界にもどんどんチャレンジしてみませんか。

追記:スポーツ科学に携わる大学生・大学院生の皆さんには,次のレビューをぜひとも読んでいただきたいものです。それぞれの論文で印象に残る一文も掲載しておきます。ただし,かなり専門的な文献です。あしからず。

 Hawley JA et al., Integrative Biology of Exercise. Cell, 159, 738-749, 2014.

“The application of molecular techniques to exercise biology has provided greater understanding of the multiplicity and complexity of cellular networks involved in exercise responses. The study of exercise biology shows that the need to integrate observations from genes, molecules, and cells in a physiological context has never been greater.”

 Bishop-Baily D. Mechanisms governing the health and performance benefits of exercise. British Journal of Pharmacology, 170, 1153-1166, 2013.

“Understanding the mechanisms of action of exercise will allow us to develop new therapies that mimic the protective actions of exercise.”